野球日本代表、最後のオリンピック(仮)
ロス五輪からはじまった旅路。ソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネと渡りたどり着いた北京五輪。侍ジャパンの、すなわち野球日本代表のオリンピックの歴史はひとまずここで終了する。当時はそう思っていた。だがまさかの東京五輪で復活。だがまさかの延期。
2007年1月25日、日本代表星野仙一監督就任会見である。北京五輪アジア地区予選の1年近く前に監督就任が決定するとは念入りである。それだけ日本球界にとっては、オリンピックで金メダルというのは悲願なのだろう。WBCとオリンピックはやはり違うのだ。
星野ジャパンはアジア地区予選に先駆けて、北京プレオリンピックに出場した。これには4年ほど現場を離れていた星野監督の実戦経験を積む目的もあった。代表メンバーはプロ若手選手と大学生の混合チームで、プロからは坂本勇人、岡田貴弘などが、大学生では宮西尚生(関西学院大学)などが選出されていた。
2007年のアジア地区予選で優勝し、星野ジャパンは北京オリンピックへの出場を決める。このときの日本代表はとても熱量が高く、チームとしての一体感も強く感じた。翌年の北京五輪があのような結果になるとは想像すらできなかった。
オリンピックイヤー、8月1日に直前合宿がはじまり8日、9日に東京ドームでパ選抜とセ選抜との強化試合を行った。五郎はパ選抜との強化試合を見に行った。その試合で生まれて初めてファウルボールを手中におさめた。これが結果として、五郎の北京五輪星野ジャパンのクライマックスとなった。
日本代表メンバー
監督
77 星野仙一
コーチ
88 田淵幸一
80 山本浩二
72 大野豊
投手
1 川上憲伸(中日D)
13 岩瀬仁紀(中日D)
15 田中将大(東北楽天GE)
16 涌井秀章(埼玉西武L)
17 成瀬善久(千葉ロッテM)
18 ダルビッシュ有(北海道日本ハムF)
19 上原浩治(読売G)
21 和田毅(福岡ソフトバンクH)
28 藤川球児(阪神T)
47 杉内俊哉(福岡ソフトバンクH)
捕手
10 阿部慎之助(読売G)
22 里崎智也(千葉ロッテM)
39 矢野輝弘(阪神T)
内野手
2 荒木雅博(中日D)
3 中島裕之(埼玉西武L)
6 宮本慎也 (東京ヤクルトS)
7 西岡剛(千葉ロッテM)
25 新井貴浩(阪神T)
52 川崎宗則(福岡ソフトバンクH)
55 村田修一(横浜B)
外野手
23 青木宣親(東京ヤクルトS)
31 森野将彦(中日D)
41 稲葉篤紀(北海道日本ハムF)
46 G.G.佐藤(埼玉西武L)
基本オーダー
1(指)西岡 剛
2(二)荒木雅博
3(中)青木宣親
4(一)新井貴浩
5(右)稲葉篤紀
6(遊)中島裕之
7(捕)阿部慎之助
8(三)村田修一
9(左)G.G.佐藤
予選リーグ
第1戦
キューバvs日本
🇯🇵 0 0 1 0 1 0 0 0 0 2
🇨🇺 0 1 1 0 2 0 0 0 0 4
(日)ダルビッシュ、成瀬、田中、藤川 ― 里崎
【本】
予選リーグ第1戦はキューバ戦。
先発はダルビッシュ有。
だがダルビッシュはストレートの制球が定まらず、甘いスライダーをことごとく痛打されて3回で2失点。5回裏に無死ニ、三塁のピンチをつくり降板、つづく成瀬もデスパイネにタイムリーを打たれて2失点。
同点に追いついた直後だけに日本としては痛い失点だった。打線は8安打を打つが3併殺とつながりが悪く大事な初戦を落としてしまった。
第2戦
台湾vs日本
🇯🇵 0 0 0 0 1 1 0 0 4 6
🇹🇼 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1
(日)涌井、岩瀬、藤川、上原 ― 阿部
【本】阿部1号
台湾戦では先発涌井が6回を1失点に抑えると岩瀬、藤川、上原の最強リレーできっちり締めた。
第3戦
日本vsオランダ
🇳🇱 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
🇯🇵 4 0 0 0 0 0 0 2 X 6
(日)杉内、田中、川上 ― 阿部、矢野
【本】G.G.佐藤1号
オランダ戦は杉内が7回を無失点、つづく田中に川上も得点を与えず完封リレーである。
第4戦
日本vs韓国
🇰🇷 0 0 0 0 0 0 2 0 3 5
🇯🇵 0 0 0 0 0 2 0 0 1 3
(日)和田、川上、岩瀬 ― 阿部
【本】新井1号
第4戦は初戦につづく予選リーグ大一番である韓国戦。先発は和田毅。
韓国の先発は左腕の金廣鉉である。
6回まで両国とも無得点で、先制したのは日本代表。6回裏に4番新井が2アウトから2ランホームランである。
先発の和田は6回9奪三振と安定していた。本来なら7回から岩瀬、藤川、上原と日本のトリプルストッパーへの継投だったが、星野監督は和田を続投させた。
だがこれが裏目に出た。
和田は7回表に先頭打者をこの試合初めての四球で歩かせると、つづく李大浩に同点2ランを打たれてしまう。9回には岩瀬がつかまり3失点。日本は厳しい状況になった。
第5戦
カナダvs日本
🇯🇵 0 0 0 0 1 0 0 0 0 1
🇨🇦 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
(日)成瀬、藤川、上原 ― 里崎、矢野
【本】稲葉1号
後がない第5戦はカナダ戦。先発は成瀬。この成瀬が快投を見せる。7回を2安打10奪三振無失点である。打線は5回に稲葉が大会1号ホームランを放ちこれが決勝点となった。
第6戦
日本vs中国
🇨🇳 0 0 0 0 0 0 0 0
🇯🇵 0 3 1 0 0 0 6 10
7回コールド
(日)涌井 ― 矢野
【本】西岡1号
第6戦の中国戦を7回コールドで勝ち。
第7戦
日本vsアメリカ
🇺🇸 0 0 0 0 0 0 0 0 4 4
🇯🇵 0 0 0 0 0 0 0 0 2 2
(日)ダルビッシュ、田中、川上、岩瀬 ― 里崎
【本】
予選リーグ最終戦となるアメリカ戦。先発はダルビッシュである。2回を打者6人で抑え、田中にスイッチ。19歳の田中は5回無失点の好投。川上も2回を無失点で終えて日米ともに無得点で延長タイブレークに突入した。11回表、岩瀬が4点を失うとその裏日本は2点どまり。日本代表は予選リーグを4位で終えた。
決勝ラウンド
準決勝
韓国vs日本
🇯🇵 1 0 1 0 0 0 0 0 2 4
🇰🇷 0 0 0 1 0 0 1 4 X 6
(日)杉内、川上、成瀬、藤川、岩瀬、涌井 ― 矢野
【本】
準決勝は韓国戦である。
先発は杉内。韓国はまたしても金廣鉉。
予選リーグの順位なんかどうでもいいのだ、準決勝に進出したからいいのだと開き直れたかどうか。初回に西岡の内野安打から韓国のミスも重なり併殺崩れで1点先制。
3回にも日本は青木のタイムリーで1点追加。序盤で2点をリードしたものの、チャンスを広げることはできなかった。これが終盤に響く。
杉内は調子が上がらないダルビッシュに代わっての先発。3回まで無安打に抑えるが、4回に連打を浴びて併殺崩れで1点を失い川上に交代。
その後の成瀬と無失点の継投だったが、7回裏藤川が抜けたフォークを痛打されて同点に追いつかれる。そして8回裏、岩瀬が不振の李承燁に2ランホームランを打たれ勝ち越される。
ランナーを残して涌井に代わると、ここで後世まで語り継がれるプレーが生まれる。もちろんG.G.佐藤のエラーである。さらなる失点で4点差をつけられた日本は9回表、3人でジ・エンド。
予選リーグにつづき韓国に敗れ去った。
3位決定戦
アメリカvs日本
🇯🇵 1 0 3 0 0 0 0 0 0 4
🇺🇸 0 1 3 0 4 0 0 0 X 8
(日)和田、川上、岩瀬、ダルビッシュ ― 阿部
【本】荒木1号、青木1号
翌日のアメリカとの3位決定戦。
アテネ五輪につづいて銅メダルを目指すしかない日本代表の先発は和田毅。
日本代表は1回表に荒木のソロホームランで先制するが、2回裏に追いつかれる。直後の3回表、四球でランナーをためると青木の3ランが飛び出し3点差として日本ペースで行くかと思われたが、その裏にまたしても日本代表の歴史に残るプレーが生まれる。もちろんG.G.佐藤である。悪霊に取り憑かれたかのような佐藤のエラーから1死1、2塁となり、和田はアメリカ代表4番のマシュー・ブラウンに3ランを打たれて追いつかれる。
さらに5回裏、代わった川上がつかまり4失点。打線も中盤以降は沈黙し、完全に力負けとなった3位決定戦。銅メダルを取ることも叶わず4位で終戦となった日本代表、星野ジャパン。
日本代表強化試合で取ったファウルボール
星野ジャパンの敗因
故障者続出。
前年のアジア地区予選のメンバーを軸に行われた代表選考だが故障者や不振の選手が続出した。最終的に選ばれたメンバーも直前合宿や北京入りしてから体調不良になり、特に内野陣がボロボロになっていた。
大会を通じての貧打線。
大会チーム打率・233、得点36はベスト4のチームでは最下位。予選リーグの初戦であるキューバ戦でストライクゾーンに惑わされ、それが最後まで足をひっぱった。
星野監督の「らしさ」が裏目に。
選考の時点で、シーズンでは不振の上原を選んだこと。予選リーグ韓国戦・アメリカ戦で負け投手となった岩瀬に固執し、準決勝で同点の場面で投入し決勝打を打たれてしまったこと。
川上の起用法も疑問が残り、打線では準決勝で致命的なエラーをした佐藤、打撃不振の阿部、村田らを3位決定戦でスタメンに選んだ。
結果は、すべてが裏目に出てしまったというわけである。勝負事とはそういうものだ。
こうして列挙してみてもあまり納得はできない。どうにかなったのではないかと思ってしまうものばかりである。アマチュアの代表選考は非情なものだろう。ストライクゾーンへの対応も国際大会に場慣れしているアマチュアの代表チームには問題にもならないだろう。
こうして考えてみると、オリンピックにプロ選手が参加したのがそもそも間違いなのではないか、とあらためて思ってしまう。
敗因がオールプロの代表故のものなのだ。アテネ五輪でもそうだったが、闘将・星野仙一といえども国際大会においては素人同然である。果たしてアテネ五輪から北京五輪までの4年間でどれほど日本代表の課題が継承されたのだろうか。
この時代は、まだまだオールプロの日本代表が国際大会に適応できてなかったのだ。シドニー五輪でプロとアマの混成チームを結成したわけだが、このときに国際経験が希薄なプロ側はアマからどれほどのことを吸収して、さらにそれをプロ野球界に伝達してくれたのだろうか。
この、ナショナルチームから次のナショナルチームへの伝承みたいなものが野球界では欠落していたような気がする。そもそも何のための日本代表なのか?一過性ではなく、継続的なビジョンを携えた日本代表構築の必要性を感じはじめたのはこのときだった。