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最後の聖戦
野球日本代表、ロスから北京への旅路
ロサンゼルス、ソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ。そして北京。無機質な都市の名が、過ぎ去った歴史の断片のように列挙される。
1984年からはじまった、野球日本代表、いや日本球界の戦いの旅路。その旅路の果てに見えてくるのは、白球を追い続けた侍たちの執念と夢だろうか。
2008年、北京を終着としてこの旅は終わりを迎えると思われていたのだが。
星野仙一、その執念
2007年1月25日、星野仙一という名が、日本代表監督として歴史に刻まれる。その日、記者会見の場に立った星野は未来を見据えた眼差しを浮かべていた。
この、侍ジャパン常設化以前に、本大会の1年以上前に監督就任という異例とも言える迅速な措置により、日本球界がどれだけオリンピックでの金メダル獲得を悲願としていたかがわかるだろう。
星野ジャパンは、2007年の北京プレオリンピックで第一歩を刻む。若手プロ選手と大学生からなる混成チームは、未来を予感させるものだった。坂本勇人。岡田貴弘。そして、関西学院大学からは宮西尚生。名前は、あくまで一部の象徴に過ぎない。
それよりも重要だったのは、彼らが星野の下で、何を成し遂げようとしていたかだ。
同年、アジア地区予選を制し、星野ジャパンは北京への切符を手にする。チームの一体感。それは、単なる技術や戦略を超えた、精神的な高揚感だった。
Private Landscape
2008年8月。オリンピック本戦を前に、星野ジャパンは東京ドームで強化試合を行った。パ・リーグ選抜とセ・リーグ選抜が相手。
緊張感の漂う試合の中、ふとした瞬間に訪れる予期せぬ出来事。それは、筆者が生涯忘れることのない記憶を残した。ファウルボールが宙を舞い、偶然にも自分の手中に収まる。熱気に包まれたドームの空気と、その手の感触が、今でも鮮明に蘇る。
その瞬間が、個人的な意味での「北京五輪のクライマックス」だったのかもしれない。というのはいささか悲観的すぎるだろうか。
日本代表メンバー
監督
77 星野仙一
コーチ
88 田淵幸一
80 山本浩二
72 大野豊
投手
1 川上憲伸(中日D)
13 岩瀬仁紀(中日D)
15 田中将大(東北楽天GE)
16 涌井秀章(埼玉西武L)
17 成瀬善久(千葉ロッテM)
18 ダルビッシュ有(北海道日本ハムF)
19 上原浩治(読売G)
21 和田毅(福岡ソフトバンクH)
28 藤川球児(阪神T)
47 杉内俊哉(福岡ソフトバンクH)
捕手
10 阿部慎之助(読売G)
22 里崎智也(千葉ロッテM)
39 矢野輝弘(阪神T)
内野手
2 荒木雅博(中日D)
3 中島裕之(埼玉西武L)
6 宮本慎也 (東京ヤクルトS)
7 西岡剛(千葉ロッテM)
25 新井貴浩(阪神T)
52 川崎宗則(福岡ソフトバンクH)
55 村田修一(横浜B)
外野手
23 青木宣親(東京ヤクルトS)
31 森野将彦(中日D)
41 稲葉篤紀(北海道日本ハムF)
46 G.G.佐藤(埼玉西武L)
基本オーダー
1(指)西岡 剛
2(二)荒木雅博
3(中)青木宣親
4(一)新井貴浩
5(右)稲葉篤紀
6(遊)中島裕之
7(捕)阿部慎之助
8(三)村田修一
9(左)G.G.佐藤
予選リーグ
第1戦
キューバvs日本
🇯🇵 0 0 1 0 1 0 0 0 0 2
🇨🇺 0 1 1 0 2 0 0 0 0 4
(日)ダルビッシュ、成瀬、田中、藤川 ― 里崎
【本】
予選リーグ第1戦はキューバ戦。
先発はダルビッシュ有。
だがダルビッシュはストレートの制球が定まらず、甘いスライダーをことごとく痛打されて3回で2失点。5回裏に無死ニ、三塁のピンチをつくり降板、つづく成瀬もデスパイネにタイムリーを打たれて2失点。
同点に追いついた直後だけに日本としては痛い失点だった。打線は8安打を打つが3併殺とつながりが悪く大事な初戦を落としてしまった。
第2戦
台湾vs日本
🇯🇵 0 0 0 0 1 1 0 0 4 6
🇹🇼 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1
(日)涌井、岩瀬、藤川、上原 ― 阿部
【本】阿部1号
台湾戦では先発涌井が6回を1失点に抑えると岩瀬、藤川、上原の最強リレーできっちり締めた。
第3戦
日本vsオランダ
🇳🇱 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
🇯🇵 4 0 0 0 0 0 0 2 X 6
(日)杉内、田中、川上 ― 阿部、矢野
【本】G.G.佐藤1号
オランダ戦は杉内が7回を無失点、つづく田中に川上も得点を与えず完封リレーである。
第4戦
日本vs韓国
🇰🇷 0 0 0 0 0 0 2 0 3 5
🇯🇵 0 0 0 0 0 2 0 0 1 3
(日)和田、川上、岩瀬 ― 阿部
【本】新井1号
第4戦は初戦につづく予選リーグ大一番である韓国戦。先発は和田毅。
韓国の先発は左腕の金廣鉉である。
6回まで両国とも無得点で、先制したのは日本代表。6回裏に4番新井が2アウトから2ランホームランである。
先発の和田は6回9奪三振と安定していた。本来なら7回から岩瀬、藤川、上原と日本のトリプルストッパーへの継投だったが、星野監督は和田を続投させた。
だがこれが裏目に出た。
和田は7回表に先頭打者をこの試合初めての四球で歩かせると、つづく李大浩に同点2ランを打たれてしまう。9回には岩瀬がつかまり3失点。日本は厳しい状況になった。
第5戦
カナダvs日本
🇯🇵 0 0 0 0 1 0 0 0 0 1
🇨🇦 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
(日)成瀬、藤川、上原 ― 里崎、矢野
【本】稲葉1号
後がない第5戦はカナダ戦。先発は成瀬。この成瀬が快投を見せる。7回を2安打10奪三振無失点である。打線は5回に稲葉が大会1号ホームランを放ちこれが決勝点となった。
第6戦
日本vs中国
🇨🇳 0 0 0 0 0 0 0 0
🇯🇵 0 3 1 0 0 0 6 10
7回コールド
(日)涌井 ― 矢野
【本】西岡1号
第6戦の中国戦を7回コールドで勝ち。
第7戦
日本vsアメリカ
🇺🇸 0 0 0 0 0 0 0 0 4 4
🇯🇵 0 0 0 0 0 0 0 0 2 2
(日)ダルビッシュ、田中、川上、岩瀬 ― 里崎
【本】
予選リーグ最終戦となるアメリカ戦。先発はダルビッシュである。2回を打者6人で抑え、田中にスイッチ。19歳の田中は5回無失点の好投。川上も2回を無失点で終えて日米ともに無得点で延長タイブレークに突入した。11回表、岩瀬が4点を失うとその裏日本は2点どまり。日本代表は予選リーグを4位で終えた。
決勝ラウンド
準決勝
韓国vs日本
🇯🇵 1 0 1 0 0 0 0 0 2 4
🇰🇷 0 0 0 1 0 0 1 4 X 6
(日)杉内、川上、成瀬、藤川、岩瀬、涌井 ― 矢野
【本】
準決勝は韓国戦である。
先発は杉内。韓国はまたしても金廣鉉。
予選リーグの順位なんかどうでもいいのだ、準決勝に進出したからいいのだと開き直れたかどうか。初回に西岡の内野安打から韓国のミスも重なり併殺崩れで1点先制。
3回にも日本は青木のタイムリーで1点追加。序盤で2点をリードしたものの、チャンスを広げることはできなかった。これが終盤に響く。
杉内は調子が上がらないダルビッシュに代わっての先発。3回まで無安打に抑えるが、4回に連打を浴びて併殺崩れで1点を失い川上に交代。
その後の成瀬と無失点の継投だったが、7回裏藤川が抜けたフォークを痛打されて同点に追いつかれる。そして8回裏、岩瀬が不振の李承燁に2ランホームランを打たれ勝ち越される。
ランナーを残して涌井に代わると、ここで後世まで語り継がれるプレーが生まれる。もちろんG.G.佐藤のエラーである。さらなる失点で4点差をつけられた日本は9回表、3人でジ・エンド。
予選リーグにつづき韓国に敗れ去った。
3位決定戦
アメリカvs日本
🇯🇵 1 0 3 0 0 0 0 0 0 4
🇺🇸 0 1 3 0 4 0 0 0 X 8
(日)和田、川上、岩瀬、ダルビッシュ ― 阿部
【本】荒木1号、青木1号
翌日のアメリカとの3位決定戦。
アテネ五輪につづいて銅メダルを目指すしかない日本代表の先発は和田毅。
日本代表は1回表に荒木のソロホームランで先制するが、2回裏に追いつかれる。直後の3回表、四球でランナーをためると青木の3ランが飛び出し3点差として日本ペースで行くかと思われたが、その裏にまたしても日本代表の歴史に残るプレーが生まれる。もちろんG.G.佐藤である。悪霊に取り憑かれたかのような佐藤のエラーから1死1、2塁となり、和田はアメリカ代表4番のマシュー・ブラウンに3ランを打たれて追いつかれる。
さらに5回裏、代わった川上がつかまり4失点。打線も中盤以降は沈黙し、完全に力負けとなった3位決定戦。銅メダルを取ることも叶わず4位で終戦となった日本代表、星野ジャパン。
日本代表強化試合で取ったファウルボール
星野ジャパン惨敗の風景
星野ジャパンという虚構
北京五輪へ挑んだ「星野ジャパン」の旗印は勇ましかったが、結局のところそれは虚構だったのではないか。
日本代表とは一過性の見世物で終わるべきではない。次に繋がるものを何も残せないなら、それはただの「舞台装置」に過ぎないだろう。
言葉だけが派手に踊り、中身は空虚だったと言わざるを得ない。アテネ五輪のときも、読売新聞社がスポンサーに決まった途端に長嶋茂雄が代表監督に担ぎ出されたが、アテネも北京も似たような器が用意されてしまったのだ。
星野ジャパン惨敗の要因と根源的問題
・故障者続出
・崩壊した救援陣。
・チャンスに沈黙した打線。
・不安定なストライクゾーン。
・星野監督の人情采配
敗戦の要因はいくつかあるだろう。データを精緻し、アナライズすればさらに多くのことが見えてくるだろう。
だが、北京五輪を経て、あらためて問い直さなければならないのは、「日本代表」とは何のために存在するのか、という根源的な問題ではないか。
シドニーではプロアマ混成チーム、アテネでは各球団2名の制限下で、そして北京五輪ではNPBのトッププレイヤーを揃えたオールプロ編成。
この3大会を振り返れば、確かにチーム編成そのものは改善の跡を見せた。しかし、それはあくまで編成における「器」の話であり、肝心の「中身」は何も変わらず未熟なままだったことは否めない。
シドニー五輪のプロアマ混成チームの準決勝敗退という結果を受け、プロ側はアマチュアから何を学び、またそれをどのようにプロ野球界全体に還元したのか。
アテネから北京に至る4年間で、日本代表の課題がどれだけ受け継がれたのか── その実態を見直せば、疑問符ばかりが浮かぶ。
同様に、アテネ五輪での中畑清監督、そして北京五輪での星野仙一監督。国内では名声を築いたプレイヤーであり指揮官だが、それはあくまでドメスティックなもので、国際大会においてはまるで意味を成さず、彼らは「素人」同然の立場だった。
日本代表を冠したチームの内実は、実際には「星野ジャパン」という名前だけが先行する仮構の存在だったと言わざるを得ない。
日本球界の真の連携
問題の本質は、「オールプロ」という形式に潜む矛盾にある。プロアマの真の連携── それは国際大会への適応を進めるうえで不可欠なプロセスであったはずだが、実際には軽視され続けた。
そして、ナショナルチームから次世代のナショナルチームへ課題を伝える「継承」の仕組みが欠落していたことで、毎回の大会が孤立した存在となり、連続性を欠いた。
アマチュア日本代表が長い年月に渡り積み上げていった、国際大会の経験値が長嶋ジャパンや星野ジャパンにどれほど継承されたのか。
結局のところ、日本球界が真の「オールジャパン」を体現する日はまだまだ先のことであった。器だけが磨き上げられ、中身は何も変わらないまま使い回されてオリンピックの野球競技は終わった。
必要だったのは、見せかけの美しい器ではなく、課題・問題点を次に継承する形をつくることだった。
国際大会における日本代表とは、単なる舞台装置ではなく、未来を紡ぐ基盤であるべきなのだから。