東京オリンピックで野球が復活する。
この先はどうなるのかわからないが、とりあえずパリ五輪では採用されなかったが、野球が盛んな国での五輪開催では採用してほしいものだ。
というわけで過去の侍ジャパン、すなわち野球日本代表のオリンピックの記憶を遡っていこうと思う。
1984年ロサンゼルス・オリンピックでの野球は公開競技である。
公開競技とは、五輪主催国において根付いていたり、多くの国に広まっているスポーツをオリンピック競技として実験的に実施する競技のことである。
野球が正式種目として採用されるのは1992年バルセロナ五輪からである。また、五輪における公開競技はアトランタ五輪以降は実施されていない。
公開競技ではあるが予選も行われている。そのアジア予選で日本は敗退し五輪出場権を得ることができなかったのは有名な話だ。
で、大会直前にキューバが政治的な理由で不参加を表明し日本に参加要請がくるわけだが、キューバの代替国として選ばれたわけではない。
もともとロス五輪の野球はアメリカ、キューバ、ニカラグア、イタリア、韓国、台湾の6ヶ国で開催される予定であった。だがキューバの不参加により5ヶ国となってしまった。
しかもアマチュア最強と言われていたキューバ代表は大会の目玉とされていた。この危機に対して大会組織委員は出場国を8ヶ国に拡大し、増えた2枠に日本とカナダに参加を要請、キューバの代替国としてドミニカ共和国が選ばれたのである。
侍ジャパン、とは呼ばれていない時代。
日本代表でもない。
全日本と呼ばれていたロス五輪の登録メンバーは20人であった。
アテネ、北京の登録メンバーが24人であったことを考えるとやはり少ない。やり繰りが難儀し、監督も大変だったに違いない。
投手が6人である。現在の国際大会では考えられない数である。アテネ五輪で11人、北京五輪で10人の投手選考である。WBCでは五輪より登録数が多いのでさらに投手は多く選考されている。
大会5試合中3試合を吉田幸、宮本、伊東の3人のリレーでまわしている。しかもオープニングゲームである苦手の韓国戦、準決勝、決勝の3試合である。時代を感じる投手起用だ。
全日本の4番は荒井である。ヤクルトのイメージからすると、へー、と思ってしまう。まだ学生の広沢は5、6番であった。平均年齢が22.5歳と若いチームで、試合前にリラックスした雰囲気の他の代表国に対し、日本代表は若さゆえかガチガチに緊張していたという。そんな選手たちに松永監督は言ったのである。
「君たちは緊張しろ。緊張すれば必ず力が出るんだ」
日本代表メンバー
監督
30 松永怜一
コーチ
33 鈴木義信
34 鴨田勝雄
投手
11 米村明 →中日D
12 吉田幸夫
14 伊東昭光 →ヤクルトS
15 伊藤敦規 →阪急B
16 宮本和知 →読売G
18 西川佳明 →南海H
捕手
20 嶋田宗彦 →阪神T
21 吉田康夫 →阪神T
22 秦真司 →ヤクルトS
内野手
2 正田耕三 →広島C
3 浦東靖
4 森田芳彦 →ロッテO
5 上田和明 →読売G
9 和田豊 →阪神T
10 広沢克己 →ヤクルトS
23 福本勝幸
外野手
7 荒井幸雄 →ヤクルトS
8 古川慎一 →ロッテO
25 熊野輝光 →阪急B
27 森田昇
基本オーダー
1 (二) 正田耕三
2 (捕) 嶋田宗彦
3 (中) 熊野輝光
4 (右) 荒井幸雄
5 (一) 福本勝幸
6 (指) 広沢克己
7 (左) 森田昇
8 (三) 浦東 靖
9 (遊) 森田芳彦
予選リーグ
青組第1戦
韓国 vs.日本
🇯🇵 0 0 0 1 0 0 0 0 1 2
🇰🇷 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
(日)吉田幸、宮本、伊東 ─ 嶋田
(韓)宣銅烈、朴魯俊、呉命録 ─ 金栄伸
予選リーグは青組と白組の2グループに分かれて行われた。青と白である。やはり時代を感じる。
日本は青組に入り韓国、ニカラグア、カナダと対戦した。
とにかくこの、初戦である韓国戦に勝ったのが大きかった。この頃の日本は韓国を苦手としていた。ひたすら負けていたのである。
それをピッチャーが完封リレー。この1勝で日本代表は勢いにのったのではないだろうか。
青組第2戦
日本 vs.ニカラグア
🇳🇮 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1
🇯🇵 0 7 0 1 1 4 0 6 X 19
(日) 伊藤、米村 ─ 嶋田、吉田康
【本】熊野、広沢、荒井2
野球が国技であるニカラグアとの対戦は、日本が投打で圧倒し、快勝となった。
青組第3戦
日本 vs.カナダ
🇨🇦 0 0 4 1 0 0 0 1 0 6
🇯🇵 0 1 0 0 0 0 1 2 0 4
(日) 伊藤、米村、西川 ─ 秦
【本】広沢
予選リーグ最終戦となったカナダ戦は準決勝進出を決めていて消化試合でもあるのだが、松永監督は気を緩めない。何がなんでも勝つ!と激をとばした。
とはいえ出番のなかった選手を積極的に起用した救援陣などを休ませる采配でもあった。
ある意味これはアグレッシブな思考で、後のプロ参入後の日本代表には見られない采配だった。
決勝ラウンド
準決勝
日本 vs.台湾
🇹🇼 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1
🇯🇵 0 0 0 0 1 0 0 0 1 2
(日) 吉田幸、宮本、伊東 ─ 嶋田
(台) 郭泰源、杜福明─
準決勝は台湾戦。台湾のエースは郭泰源である。
厳しい戦いになることは間違いなかった。
松永監督はミーティングで、ベース付近に立ち内角球を封じる・バットを短めにもって速球にはミートに徹する・外角の変化球を狙う、この3点を指示した。結果はサヨナラ勝ちであった。
決勝
アメリカ vs.日本
🇯🇵 0 0 0 2 1 0 0 3 0 6
🇺🇸 0 0 1 0 0 0 0 0 2 3
(日) 伊東、宮本、吉田幸 ─ 嶋田
(ア) フーバー、エイキンズ ─ マルザノ
【本】広沢
「アメリカに勝って日本アマチュア野球史に名を残そう」と、松永監督は決勝前夜のミーティングで語ったという。
3回、アメリカにソロホームランで先制を許すもすぐに反撃開始。荒井、広沢のタイムリーで逆転。8回には広沢の3ランが飛び出しての快勝であった。
金メダルである。大会直前に編成された急造チームがアメリカを破って快挙を成し遂げたのである。
このときのアメリカ代表にはシェーン・マック、マーク・マグワイアなどがいた。
逸話として、野球の全日本チームは五輪用の赤いブレザーが間に合わなかった、との理由で開会式に参加させてもらえなかったと言われている。
そんな屈辱がありながら大会にのぞんだわけだが、結果は金メダルである。屈辱感もドジャースタジアムでの表彰式で吹き飛んだという。
これは当時の「週刊ベースボール」にも既に書かれている逸話だ。
だが、後に広沢は語っている。
赤いブレザーは届いていたと。
開会式に出なかったのは、松永監督が「全種目・全選手が開会式に出る必要はない」と聞いてきたため、地元アマチュアチームとの練習試合を組んでしまったのである。しかもダブルヘッダー。松永監督は鬼なのであった。
ナショナルチームにプロ選手が参入する前の時代、世界の野球を肌で感じていたのは主に社会人野球の選手たちであった。
社会人野球の選手たちは全日本入りを目指し、打倒キューバや世界一を目標としていた。
そんな時代に、オリンピックという大舞台で日本代表は頂点に立った。五輪で金メダルという夢が夢でしかなかったような、夢ですらなかったような段階である。
松永怜一という稀代の名監督と、若き侍たちが起こしたケミストリーである。