侍ジャパンと、ユニフォームと

野球日本代表、すなわち侍ジャパンのユニフォームに関する二、三の事柄

【侍ジャパンの歴史・記憶 84ロス五輪】

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1984年ロサンゼルス五輪

日本代表

監督         
30 松永怜一     
コーチ        
33 鈴木義信     
34 鴨田勝雄     
投手         
11 米村明 →中日
12 吉田幸夫    
14 伊東昭光 →ヤクルト
15 伊藤敦規 →阪急
16 宮本和知 →巨人
18 西川佳明 →南海
捕手          
20 嶋田宗彦 →阪神
21 吉田康夫 →阪神
22 秦真司 →ヤクルト
内野手         
2 正田耕三 →広島
3 浦東靖        
4 森田芳彦 →ロッテ
5 上田和明 →巨人
9 和田豊 →阪神
10 広沢克己 →ヤクルト
23 福本勝幸      
外野手          
7 荒井幸雄 →ヤクルト
8 古川慎一 →ロッテ
25 熊野輝光 →阪急
27 森田昇       


予選リーグ青組第1戦
韓国vs日本

   1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
JPN 0 0 0 1 0 0 0 0 0 2
KOR 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

(日)吉田幸、宮本、伊東─嶋田
(韓)宣銅烈、朴魯俊、呉命録─金栄伸


予選リーグ青組第2戦
日本vsニカラグア

   1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
NIC 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1
JPN 0 7 0 1 1 4 0 6 19

(日) 伊藤、米村─嶋田、吉田康
【本】熊野、広沢、荒井2


予選リーグ青組第3戦
日本vsカナダ

   1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
CAN 0 0 4 1 0 0 0 1 0 6
JPN 0 1 0 0 0 0 1 2 0 4

(日) 伊藤、米村、西川─秦
【本】広沢


準決勝
日本vs台湾

   1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
TWN 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1
JPN 0 0 0 0 1 0 0 0 1 2

(日) 吉田幸、宮本、伊東─嶋田
(台) 郭泰源、杜福明─


決勝
アメリカvs日本

   1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
JPN 0 0 0 2 1 0 0 3 0 6
USA 0 0 1 0 0 0 0 0 2 3

(日) 伊東、宮本、吉田幸─嶋田
(ア) フーバー、エイキンズ─マルザノ
【本】広沢


基本オーダー

1 2B 正田
2 C 嶋田
3 CF 熊野
4 RF 荒井
5 1B 福本
6 DH 広沢
7 LF 森田昇
8 3B 浦東
9 SS 森田芳

1984年ロサンゼルス五輪での野球は公開競技である。公開競技とは、五輪主催国において根付いていたり、多くの国に広まっているスポーツをオリンピック競技として実験的に実施する競技のことである。野球が正式種目として採用されるのは1992年バルセロナ五輪からである。また、五輪における公開競技はアトランタ五輪以降は実施されていない。
公開競技ではあるが予選も行われている。そのアジア予選で日本は敗退し五輪出場権を得ることができなかったのは有名な話だ。で、大会直前にキューバが不参加を表明し日本に参加要請がくるわけだが、キューバの代替国として選ばれたわけではない。
もともとロス五輪の野球はアメリカ、キューバ、ニカラグア、イタリア、韓国、台湾の6ヶ国で開催される予定であったが、キューバの不参加により5ヶ国となってしまった。しかもアマチュア最強と言われていたキューバは大会の目玉とされていた。この危機に対して大会組織委員は出場国を8ヶ国に拡大し、日本とカナダに参加を要請、キューバの代替国としてドミニカ共和国が選ばれたのである。
侍ジャパン、とは呼ばれていない時代。日本代表でもない。全日本と呼ばれていたロス五輪の登録メンバーは20人。アテネ、北京の登録メンバーが24人であったことを考えるとやはり少ない。やり繰りが難儀し、監督も大変だったに違いない。投手が6人である。現在の国際大会では考えられない数である。アテネ五輪で11人、北京五輪で10人の投手選考である。WBCでは五輪より登録数が多いのでさらに投手は多く選考されている。
大会5試合中3試合を吉田幸、宮本、伊東の3人のリレーでまわしている。しかもオープニングゲームである苦手の韓国戦、準決勝、決勝の3試合である。時代を感じる投手起用だ。
全日本の4番は荒井である。ヤクルトのイメージからすると、へー、と思ってしまう。まだ学生の広沢は5、6番であった。

予選リーグは青組と白組の2グループに分かれて行われた。青と白である。やはり時代を感じる。日本は青組に入り韓国、ニカラグア、カナダと争った。カナダには敗れたものの2勝1敗で準決勝に進出した。とにかく初戦の韓国戦に勝ったのが大きかったようだ。この頃の日本は韓国を苦手としていた。ひたすら負けていたのである。それをピッチャーが完封リレー。この1勝で勢いにのったのではないか。
準決勝は台湾戦。台湾のエースは郭泰源である。厳しい戦いになることは間違いなかった。松永監督はミーティングで、ベース付近に立ち内角球を封じる・バットを短めにもって速球にはミートに徹する・外角の変化球を狙う、この3点を指示した。結果はサヨナラ勝ちであった。

アメリカに勝って日本アマチュア野球史に名を残そうと、松永監督は決勝前夜のミーティングで語ったという。
3回、アメリカにソロホームランで先制を許すもすぐに反撃開始。荒井、広沢のタイムリーで逆転。8回には広沢の3ランが飛び出しての快勝であった。
金メダルである。大会直前に編成された急造チームがアメリカを破って快挙を成し遂げたのである。
逸話として、野球の全日本チームは五輪用の赤いブレザーが間に合わなかった、との理由で開会式に参加させてもらえなかったと言われている。そんな屈辱がありながら大会にのぞんだわけだが、結果は金メダルである。屈辱感もドジャースタジアムでの表彰式で吹き飛んだという。これは当時の「週刊ベースボール」にも既に書かれている。だが、後に広沢は語っている。赤いブレザーは届いていたと。開会式に出なかったのは、松永監督が「全種目・全選手が開会式に出る必要はない」と聞いてきたため地元アマチュアチームとの練習試合を組んだからだと。しかもダブルヘッダーで。松永監督は鬼なのであった。
出せ!小さくたって大声を。