侍ジャパンと、ユニフォームと

野球日本代表、すなわち侍ジャパンのユニフォームなどに関する二、三の事柄。日本代表ネタ、国際大会ネタがないときは野球カードでつなぎます。お許しを。

【侍ジャパンの歴史・記憶 99アジア選手権】半端感半端ない日本代表、笛吹けども踊らず

侍Jの記憶1999アジア野球選手権

     

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1998年の転機

長らく、国際野球大会はアマチュア選手の祭典だった。キューバの無敵ぶりが象徴するように、その支配は他国がナショナルチームにアマチュアしか送り込まない構造に支えられていた。

だが、1998年、その均衡が揺らぐ。変革は静かに、しかし決定的に訪れた。

IBAF(国際野球連盟、現・WBSC世界野球ソフトボール連盟)がIOC(国際オリンピック委員会)からの要請を受けて、国際大会へのプロ選手参加を解禁したのである。

これが何を意味するか、各国の野球界が把握するより早く、バンコクで行われたアジア競技大会で日本は現実を突きつけられた。

アマチュア選手で固めた日本代表が、オールプロ選手の代表チームを送り込んできた韓国に大敗を喫したのである。

衝撃は日本の野球界を突き抜けた。

BFJ(全日本アマチュア野球連盟)はこの惨敗を転換点と捉え、翌1999年、シドニー五輪予選を兼ねたアジア選手権にプロ選手の派遣をNPBに要請する。

だが、時代はまだまだアマとプロが友好的に手と手を取り合う段階にまでは到達していなかった。

8人のプロ選手が選ばれるも、その背景には球団の思惑が交錯し、チーム全体としての一体感など皆無だった。アマチュアとプロが混在したその代表チームは、野心も秩序もない、一種の寄せ集めに過ぎなかったのだ。

敗北の記憶も、改革の意志も、そして中途半端な現実も、すべてが煮え切らないまま、日本の野球界は揺らぎ続けていく。

 

 

日本代表メンバー

監督 

30  太田垣耕造


コーチ

33  林裕幸    
34  野村収    
35  長崎慶一

 
投手

11  高橋薫 →千葉ロッテM
12  森憲久       
15  石川雅規 →ヤクルトS
16  山田秋親 →福岡ダイエーH
18  松坂大輔 (西武L)
19  杉浦正則        
20     川越英隆(オリックスB)
23     小池秀郎(大阪近鉄B)


捕手

21  阿部慎之助 →読売G
22  的場直樹 →福岡ダイエーH
27     古田敦也(ヤクルトS) 


内野手

1      平馬淳       
2      工藤賢二       
3   松中信彦(福岡ダイエーH)
4   高橋賢司         
6      初芝清(千葉ロッテM)
7      野村謙二郎(広島C)
8   沖原佳典 →阪神T
9   阿部真宏 →大阪近鉄B


外野手

5       井出竜也(日本ハムF) 
10  梶山義彦         
24  飯塚智広         
25  鷹野史寿 →大阪近鉄B
26  赤星憲広 →阪神T

 

 

 

 

 

予選リーグ

B組 第1戦
日本 vs.フィリピン
🇵🇭  0 0 0  0 0 0  0   0
🇯🇵  1 0 0  4 2 1  2   10
(日)杉浦、森、石川 ― 的場
【本】的場

 


B組 第2戦
台湾 vs.日本
🇯🇵  0 1 0  3 0 0  2 0 3   9
🇹🇼  1 0 0  0 0 0  0 0 0   1

  (日)石川、森、山田 ― 古田、阿部慎

 

予選リーグ2戦目の台湾は主力を温存したり、決勝リーグでの先発が予想されていた許銘傑(翌年西武入り)を起用するなど心理戦を仕掛けてきていた。だが2試合を危なげなく勝利で飾った日本代表は台湾、中国、韓国との決勝リーグに進む。

 

 

決勝リーグ

第1戦
日本 vs.台湾
🇹🇼  0 0 1  0 0 0  0 0 0   1
🇯🇵  0 0 0  1 0 0  0 0 1   2
  (日)松坂 ― 古田

 

決勝リーグ上位2チームがシドニー五輪出場の切符を手にすることができるため、2敗したら絶望的である。最終戦の韓国はオールプロチームのため勝ち星を計算できる相手ではない。
そのため、初戦の台湾戦は絶対に負けられない試合である。
ここでまんをじして松坂大輔の登板である。
球場入り後の開始時間変更、痛めた左大臀筋の影響などをまったく感じさせないピッチングであった。
3回に1点を失うものの、9回完投13奪三振である。三振13個のうち8個をクリーンアップから奪うなど台湾の中軸を完璧に封じた。
だが台湾先発の蔡仲南も快投を見せた。大一番で隠し玉をぶつけてきた台湾だが、見事にはまったのである。9回まで1対1の投手戦となったが、9回裏に蔡仲南が味方のエラーから崩れてしまう。
最後は代打平馬のサヨナラヒットにより日本代表は劇的な勝利をおさめた。

 

 

第2戦
日本 vs.中国
🇨🇳  0 0 0  0 0 0  0 0 0   0
🇯🇵  0 0 0  0 0 0  1 2 X   3
(日)杉浦、山田、川越 ― 古田
【本】田中幸

 

日本の先発は、ミスターアマチュアの杉浦正則。絶対に負けられない試合の中国戦に勝利した日本はシドニー五輪出場権を得た。

 


第3戦
韓国 vs.日本
🇯🇵  0 0 0  2 0 1  0 0 0   3
🇰🇷  0 0 0  1 0 3  1 0 X   5
(日)小池、高橋薫、石川、山田 ― 古田

 

最終戦は韓国戦である。

アジアNO.1の座をかけた日韓戦だが、シドニー五輪への出場権を得た日本代表はアマチュア選手中心のメンバーで挑むことになった。

先発の小池も5回で降板したが、それが裏目に出たのか、逆転負けを喫する結果となってしまった。

だがそもそも韓国投手陣に、日本代表打線は力負けしていた面もあった。このままでは日本は勝てないということだけ、明確となった試合であった。

 

 

1999年以前/以降

1999年、プロ選手が初めて参戦した日本野球代表チームは、アジア野球選手権兼シドニー五輪アジア地区予選という歴史的な舞台に挑んだ。

この大会の最終局面で立ちはだかったのは、因縁深き宿敵・韓国。

直近の国際大会で5連敗という屈辱的な記録を背負ったままの対戦となったが、太田垣監督は「勝利」という至上命題をあえて後回しにし、「経験」という名の鍛錬を選手たちに課すことを決断する。そうしてアマチュア選手たちを積極起用する戦術が採られた。

だが、運命は残酷だ。試合は終盤に劇的な展開を迎え、逆転負けという結果が待っていた。

これにより、韓国戦での連敗記録は6に伸びることになったわけだが、シドニー五輪の結果を考えると、僅かばかりだとしても、国際大会の経験を積むべきだったのはプロ選手たちだったのではないか、そんな気がしてならない。 

 

一つの均衡が崩れ、もう一つの均衡が生まれる。

1999年を境に、日本もプロ選手が国際舞台に立つ時代を迎えた。

その混乱と葛藤が侍ジャパンの誕生を加速させたのだろう。

だが、そこに至る過程は単純ではない。勝利が必ずしも全てを解決しないように、プロ参加が日本野球の未来を一枚岩にするには時間が必要だった。

今日、侍ジャパンはWBCやプレミア12で堂々たる戦績を誇る。その礎を築いたのは、この転機の中で揺らぎながらも、なお進むことを選んだ野球人たちの意思だったのだろう。