井端ジャパン誕生
令和5年10月5日の東京中日スポーツ
2023年のあの瞬間、世界中が熱に浮かされ、栗山英樹という名の男の眼球から噴き出した感涙の奔流に日本列島がビショビショになった、あの完璧なエンディングで物語は完結したかのようだった。
もちろん、そんなことはないし野球という名の業は、止まらない。止まることを知らない。
どれほど劇的に幕を引こうが、観客席のゴミが片付くより早く「次は誰だ」「誰がやるんだ」と、薄汚い風の如き声が耳たぶを撫で回す。
イチローか、松井か、工藤か、はたまた松坂か。
新聞紙面という名の不毛な荒野には、名前という名の蜃気楼が浮かんで消え、消えてはまた浮き、我々の網膜を無駄に刺激して回る。
冗談じゃない。あんな大騒ぎの後に、誰が好んで泥まみれのバトンを受け取るというのだ。
「やりたくない」
それが全人類の本音であり、正解であり、真理であるはずだ。
しかしだ。この狂った現世には、火中の栗を、わざわざ素手で、ジュウジュウと肉の焦げる音を響かせながら拾い上げねばならぬ宿命を背負わされた、救いようのない男が必要なのである。
無言の狂信、地味という名の深淵

で、拾ったのが井端弘和である。
おい、井端だ。あの井端だぞ。アライバのイバだ。
かつて二遊間という名の神域で、いぶし銀の輝きを放ちまくった無言の職人。インタビューで気の利いた冗談を飛ばすわけでもなく、ただそこに「居る」
しかしその沈黙の裏側には、野球という名の奇怪な宗教に対する、狂信的ともいえる献身がドロリと沈殿しているのが見えるではないか。
わたしは思うのだ。いや、断言してもいい。彼以外に、この焼け爛れた栗を拾える男など、この世のどこを探したっていやしない。
井端という男は、見た目も声も、徹底的に地味だ。
だが聞け。地味というのは、決して罵倒ではない。地味は、深い。地味は、底知れぬ静寂の中でゴウゴウと燃え盛る情念だ。
彼は日本球界という巨大な化け物を、少しでもマシな方向に導こうとしている。
誰に称賛されずとも、誰の視界に入らずとも、ただ黙々と、血を流しながら穴を掘り続けるタイプの人間だ。
いいか、彼が拾った栗がたとえ真っ黒に焦げていようとも、外野の我々がガタガタと文句を垂れることなど、断じて許されないのである。
本来ならば、2026年のWBCまで全権を掌握するのが筋というものだ。
ところが、提示された任期は「翌年のプレミア12まで」などという、ふざけた短期間。
世間様はこれを「つなぎ」だの「仮監督」だのと呼び、本命は別にいるのだと、薄ら笑いを浮かべて囁き合う。
それでもだ。
彼は、何も言わなかった。
拍手もなければ、祝杯のシャンパンも、華やかな花束もありゃしない。ただ静かに、そこにある帽子を手に取り、無表情に被ったのだ。
この国は、いつだってそうだ。
静かに立ち上がり、泥を被る者の気高い沈黙を、これでもかというほど見逃し続ける。この事態を一面で吠えたのは、東京中日スポーツ、ただ一紙であった。
トーチュウだけが、孤独な荒野で「井端」の名を高く掲げたのだ。
それも、紙媒体が消えゆき、電子版という実体のない記号へと変貌しようとする、その瀬戸際の紙面で。
ああ、そうか。紙の時代が、手触りのある言葉が、この世界から指の間をすり抜けるように消えていくのだな。
ニュースの断片が忘却の彼方へ消え去っても、そこに刻まれた「言葉」だけは、怨念のように残り続ける。
井端弘和の野球も、おそらくはそういうものなのだろう。
誰にも騒がれず、派手な演出もなく、しかし、逃れようのない事実としてそこに「在る」それは、あまりにも静かで、あまりにも誠実な、一筋の祈りのような形をしているのである。
発行日:2023年10月5日
新聞名:東京中日スポーツ
内容:侍Jトップチーム監督井端就任