プレミア12 台湾戦:ニッカン
日本シリーズが終わった。
あのカオスの、あの狂気の、あの焼きついた照明の渦が終わった。
テレビの前のわたしの部屋には、ただ生活音だけが残った。ポットがカチンと鳴り、遠くの線路を貨物列車が軋みながら過ぎていく。
ああ、終わったのだ、と気づいたとき、胃のあたりがひゅうっと冷えて、夜の中にぽつんと浮かぶ。
そしてワールドシリーズ。
あれも凄かった、もちろん凄かった。
メジャーというのは、もうエンターテインメントのブラックホールみたいなもので、
見たら吸い込まれる。
でもやはり、海の向こうだ。
別の次元の話だ。あのバットの音も、あのスタンドのざわめきも、ガラスの向こうの夢のように、こちらには届かない。
それに比べて日本シリーズが終わった後の、あの“空虚感”。
あれはもう、社会現象だ。
洗濯機を回しても乾かない心の湿気。侍ジャパンの強化試合があると聞いても、
「うん……まあ……」みたいな声しか出ない。
春・秋の強化試合という名の祭り。
興行か強化か、と問われれば、それはもうほぼショービズだ。火薬のにおいのする野球。チアが踊り、選手が走り、客がビールを飲む。その裏では広告代理店のノートが唸りをあげ、テレビ局の会議室に「若年層ターゲット」という言葉が飛び交う。
それでもいい。
どれほどビジネスが入り込もうが、グラウンドの砂の上で滑るスパイクの音だけは、まだ本物だからだ。
出たい選手は出ろ。
出たならもう、死ぬ気でやれ。
出ないなら寝てろ。
そういう話である。
んじゃあ今日紹介のスポーツ新聞。

オープニングラウンド第3戦。台湾戦。
つまり、アウェイの極北。四方八方から飛んでくるブーイングと太鼓。鳴り止まぬ歓声。立ち上る屋台の煙。
まるで野球という名の宗教儀式に、異国の神々が乱入してきたような錯覚。それを見て、わたしは震えた。
そうだ。代表戦とは本来、こういうものじゃないのか。
「敵地」という言葉に、心が燃えるのだ。
一面はあの源田壮亮。代表初ホームラン。天の裂け目から光が差すような打球だった。打った瞬間、台湾の空気が一瞬止まった。迎える仲間たちの笑顔がスローモーションで溶けていく。
あの稀有なシーン。
あの、たった数秒間に、人生の全部が詰まっていた。

で、台湾といえばチア。これはもう共通認識である。どんな社会問題よりも速く拡散するチアの情報。さらにはボールガールにも熱視線。
谷繁が才木を語り、吉力吉撈・鞏冠(ギリギラウ・コンクアン)がSNSでバズる。
だが考えてほしい。
1日遅れのSNS情報にいったい何の意味があるのか?
それでも新聞は書く。
なぜか?それが「新聞」だからだ。遅れて届くものの尊厳。
時代の端っこで息をしている活字たちよ、わたしはお前らを愛している。

一面は才木浩人でも良かった。
あの若さ、あのキレ、あの「こいつ絶対やるぞ」感。
だが現実は違う。紙面は別の論理で動いている。売れる写真が、勝つのだ。才木のほうが売れる気もするが。
そして、まだ誰も知らない。
この台湾と三度も対戦する運命を。そして最後の最後の決勝で倒れる未来を。
この時点で、「まさか負けるわけないっしょ」とか言っていた我々の能天気な声が、
今もどこかのスタンドで反響している。
野球というのは、つねに裏返しの予感を孕んでいる。勝利の笑顔の奥に、すでに敗北の影が蠢いている。だからこそ、我々は見続ける。応援する。終わるとわかっていても、祈る。
それが侍ジャパンを愛するということだ。
それが、生きるということだ。