侍ジャパンと、ユニフォームと

野球日本代表、すなわち侍ジャパンのユニフォームなどに関する二、三の事柄。日本代表ネタ、国際大会ネタがないときは野球カードでつなぎます。お許しを。

プレミア12 2024オープニングR台湾戦 ニッカン2024年11月17日

プレミア12 台湾戦:ニッカン

日本シリーズが終わった。

あのカオスの、あの狂気の、あの焼きついた照明の渦が終わった。

テレビの前のわたしの部屋には、ただ生活音だけが残った。ポットがカチンと鳴り、遠くの線路を貨物列車が軋みながら過ぎていく。

ああ、終わったのだ、と気づいたとき、胃のあたりがひゅうっと冷えて、夜の中にぽつんと浮かぶ。

 

そしてワールドシリーズ。

あれも凄かった、もちろん凄かった。

メジャーというのは、もうエンターテインメントのブラックホールみたいなもので、

見たら吸い込まれる。

でもやはり、海の向こうだ。

別の次元の話だ。あのバットの音も、あのスタンドのざわめきも、ガラスの向こうの夢のように、こちらには届かない。

それに比べて日本シリーズが終わった後の、あの“空虚感”。

あれはもう、社会現象だ。

洗濯機を回しても乾かない心の湿気。侍ジャパンの強化試合があると聞いても、

「うん……まあ……」みたいな声しか出ない。

 

春・秋の強化試合という名の祭り。

興行か強化か、と問われれば、それはもうほぼショービズだ。火薬のにおいのする野球。チアが踊り、選手が走り、客がビールを飲む。その裏では広告代理店のノートが唸りをあげ、テレビ局の会議室に「若年層ターゲット」という言葉が飛び交う。

それでもいい。

どれほどビジネスが入り込もうが、グラウンドの砂の上で滑るスパイクの音だけは、まだ本物だからだ。

出たい選手は出ろ。

出たならもう、死ぬ気でやれ。

出ないなら寝てろ。

そういう話である。

んじゃあ今日紹介のスポーツ新聞。

 

 


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オープニングラウンド第3戦。台湾戦。

つまり、アウェイの極北。四方八方から飛んでくるブーイングと太鼓。鳴り止まぬ歓声。立ち上る屋台の煙。

まるで野球という名の宗教儀式に、異国の神々が乱入してきたような錯覚。それを見て、わたしは震えた。

そうだ。代表戦とは本来、こういうものじゃないのか。

「敵地」という言葉に、心が燃えるのだ。

 

一面はあの源田壮亮。代表初ホームラン。天の裂け目から光が差すような打球だった。打った瞬間、台湾の空気が一瞬止まった。迎える仲間たちの笑顔がスローモーションで溶けていく。

あの稀有なシーン。

あの、たった数秒間に、人生の全部が詰まっていた。

 

 


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で、台湾といえばチア。これはもう共通認識である。どんな社会問題よりも速く拡散するチアの情報。さらにはボールガールにも熱視線。

谷繁が才木を語り、吉力吉撈・鞏冠(ギリギラウ・コンクアン)がSNSでバズる。

だが考えてほしい。

1日遅れのSNS情報にいったい何の意味があるのか?

それでも新聞は書く。

なぜか?それが「新聞」だからだ。遅れて届くものの尊厳。

時代の端っこで息をしている活字たちよ、わたしはお前らを愛している。

 

 


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一面は才木浩人でも良かった。

あの若さ、あのキレ、あの「こいつ絶対やるぞ」感。

だが現実は違う。紙面は別の論理で動いている。売れる写真が、勝つのだ。才木のほうが売れる気もするが。

 

そして、まだ誰も知らない。

この台湾と三度も対戦する運命を。そして最後の最後の決勝で倒れる未来を。

この時点で、「まさか負けるわけないっしょ」とか言っていた我々の能天気な声が、

今もどこかのスタンドで反響している。

 

野球というのは、つねに裏返しの予感を孕んでいる。勝利の笑顔の奥に、すでに敗北の影が蠢いている。だからこそ、我々は見続ける。応援する。終わるとわかっていても、祈る。

それが侍ジャパンを愛するということだ。

それが、生きるということだ。