
さよならはスローボールで
気になっていた映画を見た。
このブログで取り上げる映画といえば、いつも侍ジャパンのドキュメンタリーばかりで、まあそれは当然なのだが、今回は例外というか特別編である。
野球好きにはたまらない。
ただ、野球を知らない人が見て面白いのかどうか、正直わからない。
なぜなら、わたしにはもう「野球を知らない人」の感覚が思い出せないからだ。
予告編を見れば、すべてが出ている。
取り壊しを待つ野球場で、最後の草野球をする男たち。
ただそれだけだ。
だが「ただそれだけ」ということほど、今のわたしたちにとって難しいものはない。
映画の構造は、一試合の経過とともに閉じていく。始まりと終わりが、同一の軌道上に重なっている。
一試合、それも草野球だけで一本の映画を構成する。
そんな潔く贅沢な構造の野球映画を、他に知らない。余白だらけの時間を、映画はそのまま映し続ける。
ボール、バット、雑談、沈黙。
何も起きないようで、すべてが起きている。そんな時間の贅沢さを、わたしたちはいつの間にか手放してしまったのだと思う。
劇中の男が言う。
「俺たちは何をしてるんだ?」
観客たちは思う。
「俺たちは何を見てるんだ?」
90年代という設定は偶然ではない。
「時間の過剰さ」がまだ日常の一部として許されていた最後の時代だった。情報の網目が細かくなる前、あらゆるものが過剰でも不足でもなかった頃。
無意味のままに過ごす時間を、まだ人が美しいと思えた時代。
今やその感覚はほとんど失われた。
わたしたちは意味のある行為しか許されなくなった。意味のない時間”を過剰に嫌うようになった。
そしてその結果、何も感じられなくなっているのではないか。
かつてミニシアターで、こういうオフビート(死語)な映画を好んで見ていた。まさに90年代だ。
「昔は良かった」とか言う気はないが、年齢を重ねるとは、そういう過去に戻る回路を得ることでもある。
最近はサム・ペキンパーの西部劇が、やたらと沁みる。あの黄昏の西部開拓時代を描いた映画たちが。
真っ暗な中で試合が遂に終わり、みんながそれぞれの帰路につくと、いつもスコアをつけてくれてた爺さんも一人どこかへ帰っていく。森の中へ消えていく。
ふと思い出したのは、サム・ペキンパーの「ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯」で、映画中盤に老保安官がビリー追跡中に撃たれて死んでしまうのだが、そのシーンがとても美しい。黄昏時の河辺で人生の終焉を悟る老保安官、それは名も無き一人の男の黄昏時であり、ひとつの時代の黄昏時でもあった。そこにボブ・ディランの「天国への扉」が流れる。
スコアラーのお爺さんが森へと消えていくときに、このシーンを思い出した。
エンディングに流れるトム・ウェイツの「Ol’55」は、まるで観客の心を見透かしているかのようだ。
「帰路につく者たちの歌」
それはスクリーンの向こうではなく、こちら側、つまり「観ているわたしたち」の方の歌だ。あれは懐かしさの音楽ではない。
楽しい日々も、やわらかい時間も、いつかは終わる。「終わりを引き受けることの肯定」を、あのしゃがれ声がただ静かに告げているのだ。
今日は朝にワールドシリーズ、昼にこの映画、夜に日本シリーズ。
野球に始まり、野球で終わる。
こういう時間の過ごし方こそが、人生におけるささやかな「構造美」だ。
余談だが、今日の日本シリーズで阪神タイガースの大竹耕太郎がEEPHUS(スローボール)を投げていた。
放物線の頂点で、すべての意味が宙吊りになる。その一瞬こそ、この映画が描いていたものだ。つまり──行為は、行為それ自体のために行われる。
そして、それで充分なのだ。
