非日常と日常
野球の国際大会には、いつも議論がまとわりつく。そう、まとわりつく、という言い方で問題はない。
それは健全で、自然で、たぶん避けられないものだ。
プロ野球のレギュラーシーズンは日常だ。
朝があって、夜があって、仕事や学校や生活があって、その延長線上に試合がある。
勝っても、負けても、また翌日が来る。それはとても大事なことだ。
プロ野球は野球ファンの暮らしの一部として、静かにときに荒々しく並走している。
一方で、WBCをはじめとする国際大会は、はっきりと非日常だ。
祝祭であり、切り取られた時間であり、いつもなら抑えている感情が、少しだけ解放される場所でもある。
だからわたしは、この二週間前後の非日常に、日常の論理や温度をそのまま持ち込むことに、どうしても違和感を覚えてしまう。
もちろん、完全に切り離すことができないということはわかっている。
生活はつづくし、現実は大きくて固い。
それでも、せめてこの短い時間だけは、くり返される毎日のことを、いったん忘却の向こう側に置いてしまいたい。
そんなふうに思ってしまう。
ここでしか見えない景色・ここでしか吸えない空気
このブログでは、侍ジャパンの国際大会、ユニフォーム、そして実際に球場で見た光景や記憶を通して、その「非日常」を、できるだけ正直な言葉で残していく。
結果や数字よりも、その場で感じた空気。
あとから残った、うまく説明できない違和感。あの試合、あの場面、あのとき吸い込んだ空気。理由もなく、ふと思い出してしまうことなど。
そういうものを、できるだけ、そっと手放さずに、両手で包み込むように残したい。
なにが言いたいのか。
わかる人には、たぶん、わかる。
縫い込まれた時間
国際大会のユニフォームに惹かれる理由を、「デザインがいい」とか、「かっこいい」とか、そういう言葉だけで片づけてしまうのは、少し違う気がしている。
もちろん、色も、意匠も大事だ。
だが、それ以上に、国際大会のユニフォームには「時間」が縫い込まれている。
それは日常の時間ではない。
レギュラーシーズンのように、また次がある、という前提で着られるものでもない。
多くの場合、そのユニフォームは、二週間前後の、限られた時間のためだけに存在する。
勝っても、負けても、大会が終われば、その役目は終わってしまう。
だからこそ、国際大会のユニフォームは、どこか刹那的で、儀式的だ。
あのユニフォームを着て、あの場所に立つ。その瞬間にしか許されない感情が確かにあり、その大会でしか共有されない空気というものがある。
わたしは、ユニフォームを「結果を象徴するもの」だとは思っていない。
むしろ、そこに至るまでの時間、そして終わったあとに残る余韻まで含めた、非日常の記憶装置のようなものだと感じている。
だから大会が終わったあとも、ユニフォームのことを考えてしまう。
このブログでユニフォームについて書くのは、流行や評価を整理するためではない。
そのユニフォームが着られていた「非日常の時間」を、できるだけ正確に思い出すためだ。
わかる人には、きっと、わかると思う。
このブログが、どういう場所に立っているのかを、あらためて書いた。
色んなことがものすごい速度で変わっていく。インターネットを取り巻く環境も例外ではない。だから、置き去りにされないように両足に力を込めることもあれば、バス停でバスを待つように涼しい顔で傍観することもある。
そのどちらも間違いなく自分自身で、その両方の自分と自分を、三本間で挟まれたランナーのように右往左往しながら往来しているというわけだ。
ならば、どうせなら、消滅飛行機雲のように、この変わりゆく世界を切り裂き痕を残していきたいと願うことは自明のことのはずだ。
