侍ジャパンと、ユニフォームと

野球日本代表、すなわち侍ジャパンのユニフォームなどに関する二、三の事柄

侍ジャパンと、ユニフォームと

【侍ジャパンの歴史・記憶 1931日米野球】

1931年日米野球

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くたばれコロナ!とりあえず小さくたって大きな声で叫ばなければ気がすまぬ。昨日も今日も。

読売新聞社は1931年1月31日、大リーグ選抜チームの招致を発表した。ア・リーグ本塁打王と打点王の鉄人ルー・ゲーリッグやア・リーグMVPの剛腕レフティ・グローブ、ナ・リーグMVPフランキー・フラッシュ、ア・リーグ首位打者のアル・シモンズら多くの大物選手が来日した。彼らを相手に、日本は初めて代表チームを結成して挑むも、17戦全敗に終わった。
日本代表のチーム編成はまず、読売新聞紙上で読者投票による一次選考を行った。球場でせっせと記入したオールスターのファン投票みたいだ。ファン投票で選ばれた選手から選考委員会が最終メンバーである27人を選出した。

 

全日本メンバー

投手
伊達正男(早大)
若林忠志(法大)
宮武三郎(慶大OB)
辻猛(立大)
渡辺大陸(明大OB)

捕手
小川年安(慶大)
久慈次郎(早大OB)
井野川利春(明大)

一塁手
山下実(慶大OB)
松木謙次郎(明大)

二塁手
三原修(早大)
吉相金次郎(明大)

三塁手
水原茂(慶大)
角田隆良(明大)
佐伯喜三郎(早大)

遊撃手
苅田久徳(法大)
富永時夫(早大)

左翼手
松井久(明大)
井川喜代一(慶大)

中堅手
枡嘉一(明大)
楠見幸信(慶大)

右翼手
堀定一(慶大)
永井武雄(慶大OB)

ピンチ・ヒッター
佐藤茂美(早大)
森茂雄(早大OB)

ピンチ・ランナー
斎藤辰夫(立大OB)
田部武雄(明大)

全27名中現役大学生20名、OB7名。代打・代走要員が明確になっていておもしろい。彼らがスタメンで出場することはないのだろうか?


11月7日(神宮)vs立大 7-0
11月8日(神宮)vs早大 8-5
11月9日(神宮)vs明大 4-0
11月10日(仙台八木山)vs全明大 13-2
11月12日(前橋敷島公園)vs全日本 14-1
11月14日(神宮)vs全日本 6-3
11月15日(神宮)vs全日本 11-0
11月17日(松本長野県営)vs全日本 15-0
11月18日(神宮)vs慶大 2-0
11月19日(静岡)vs法大 8-1
11月21日(名古屋鳴海)vs全慶大 5-1
11月22日(甲子園)vs早大 10-0
11月23日(甲子園)vs全慶大 8-0
11月24日(長府)vs八幡製鉄 17-8
11月26日(甲子園)vs関大 7-2
11月29日(横浜公園)vs全横浜 3-2
11月30日(横浜公園)vs横浜高商 11-5

 


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全17試合のうち、侍ジャパン、すなわち日本代表、つまりは全日本が対戦したのは4試合のみである。ほとんどが単独大学チームと社会人チームの出場である。全敗ではあるが、僅差の試合もあった。
あまりにも速すぎて、スモークボールと呼ばれた左腕投手レフティ・グローブが登板したときの実況。「グローブ、投げました。あっ、球が速くて見えません!」なんていうくらい速かった。見えないものは打てませんな。

翌年に唐突に文部省により野球統制令なるものが発令された。その中に、学生野球と職業野球の対戦の禁止という項目があった。当時の日本には職業野球、すなわちプロ野球は発足していないのでつまりは学生は大リーグとは対戦してはなりませぬ、ということだ。この野球統制令の作成は文部省の役人によるものではなく、文部省が設置した委員会によって作られた。この委員会に朝日新聞関連の人間が入っていたことが重要である。野球統制令によって朝日毎日は学生野球における既得権益を確保したが、六大学と大リーグの日米野球によって新規参入を図った読売は早々に潰されかけたわけである。

だが、そうはならなかった。日本の野球史において日米野球野球統制令はとても重要な役割を果たしたことになる。次回の1934年開催の日米野球によって日本野球は新たな局面をむかえる。

一人一人がそれぞれの場所で踏ん張るんだ!がんばらない!怠けないこと!

そんな感じで。