侍ジャパンと、ユニフォームと

野球日本代表、すなわち侍ジャパンのユニフォームなどに関する二、三の事柄

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【侍ジャパンの歴史・記憶 1934日米野球】

1934年日米野球

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https://baseballhall.org/discover-more/stories/baseball-history/1934-japan-tour-footage-uncovered

くたばれコロナ!とりあえず小さくたって大きな声で叫ばなければ気がすまぬ。昨日も今日も。

メジャーリーグ選抜チームの目玉は当然のことにベーブ・ルースだった。11月開催の日米野球であっが、7月の時点で読売新聞はベーブ・ルースの来日を発表していた。だがベーブ・ルースは日本には行きたくないなあ、と言っていて、まずいなあ、困るなあ、と考えた正力松太郎は使者をアメリカに派遣した。使者である鈴木惣太郎がルースの似顔絵が描かれたポスターを、床屋で散髪中の本人に見せるとルースは、やっぱ行くわ、と承諾したのだとか。
前回の、1931年日米野球の記事で書いたとおり、1932年に野球統制令が発令され学生がプロ選手と試合ができなくなった。そのため日本代表は新たにプロ野球チームを立ち上げることを目的としてメンバーを集めた。プロ契約第1号が三原脩である。この日本代表チームを母体として、読売巨人軍の前身である大日本東京野球倶楽部がつくられたわけである。読売新聞社が野球界に参入してくるのを妨害するかのように発令された野球統制令たが、結果的には日本初のプロ野球チームをつくることになったというわけだ。さらには長年の日本球界のプロとアマの溝もつくりだしてしまったわけでもある。

メジャーリーグ選抜チームにはベーブ・ルースルー・ゲーリッグジミー・フォックスの三大本塁打王に、速球王のレフティ・ゴメスなどが参加していた。

 

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全日本メンバー

総監督
市岡 忠男 早稲田大出

監督
三宅 大輔 慶應大出
浅沼 誉夫 早稲田大出

投手
沢村 栄治 京都商出
青柴 憲一 立命館大出
伊達 正男 早稲田大出
武田 可一 名古屋鉄道局
浅倉 長  
ビクトル・スタルヒン 旭川中出
浜崎 真二 慶應義塾大出

捕手
久慈 次郎 早稲田大出
倉 信雄  
井野川 利春 明治大出
伊原 徳栄  名古屋鉄道局

内野手
三原 修  早稲田大出
水原 茂  慶應義塾大出
苅田 久徳 法政大出
山下 実  慶應義塾大出
永沢 富士夫 函館太洋
江口 行雄
村井 竹之助
津田 四郎
牧野 元信
山城 健三
富永 時夫
新富 卯三郎 小倉工出

外野手
二出川 延明 明治大出
中島 治康  早稲田大出
矢島 粂安  早稲田大出
夫馬 勇   早稲田大出
杉田屋 守  早稲田大出
李 栄敏 
山本 栄一郎
堀尾 文人  LA日本


総監督とはどのような役割なのだろう。どこぞのアイドルグループみたいじゃないか。チームには日米野球終了後にプロ契約をすることを前提とした選手と、日米野球のみに参加する選手がいた。この時代はまだまだプロ野球選手など未知数の職業だったのだ。沢村栄治スタルヒンなどはまだ高校生で、日米野球に出場するために高校を中退したのである。ファンキーな時代である。だが、沢村栄治のこの決断が、彼の人生を大きく左右することになってしまうのだ。戦地での負傷、巨人からの解雇通告、高校中退による二度の徴兵、戦死。享年27歳である。勝手なイメージでは年齢からして現役選手で戦死したような感じだが、実際は解雇され現役引退後の戦死である。「一生面倒を見る」などと甘い言葉で誘われ高校を中退したが、約束は果たされなかった。

 

試合結果

11月4日(神宮) vs東京倶楽部 17-1
11月5 日(神宮)vs全日本 5-1
11月8日(函館・湯ノ川) vs全日本 5-2
11月9 日(仙台・八木山) vs全日本 7-0
11月10日(神宮)vs全日本 10-0
11月11日(神宮)日米混合紅白戦 13-2
11月13日(富山・神通)vs 全日本 14-0
11月17日(神宮) vs全日本 15-6
11月18 日(横浜)vs全日本 21-4
11月20日(静岡・草薙) vs全日本 1-0
11月22日(名古屋・鳴海)vs全日本 6-5
11月23日(名古屋・鳴海)vs全日本 6-2
11月24日(甲子園)vs全日本 15-3
11月25日(甲子園)日米混合紅白戦 5-1
11月26日(小倉)vs全日本 8-1
11月28日(京都)vs全日本 14-1
11月29日(大宮)vs全日本 23-5
12月1日(宇都宮)vs全日本 14-5


1931年日米野球と同じく、全日本は1勝もあげることはできなかった。16試合を戦って、全日本は1勝もできなかったのだ。ここから75年後、侍ジャパンすなわち野球日本代表、ていうか全日本がWBCという野球最高峰の2009年大会準決勝でアメリカ代表に勝ったのは歴史的偉業であり、やはり感慨深い。
もちろん、日本球界未来への希望、と言えるような試合もあった。それが11月20日静岡草薙球場での試合である。全日本の先発は沢村栄治。沢村はメジャーリーグ選抜に対して、8回5安打1失点の好投だった。1失点は7回裏のルー・ゲーリックのホームランによるものだった。この試合は日本球界の伝説として語り継がれている。だが、沢村は他の試合では打ち込まれて、これ以外の4試合では0勝3敗・防御率10.65であった。沢村を称賛しつつも、バッターボックスに立つと太陽の光が射し込んで眩しくてかなわんかった、とベーブ・ルースは語っていた。でもまあ、結果として1安打に抑えたのは事実である。17歳という沢村の年齢を考えれば、やはり凄いことである。米メディアでもときおり思い出したように、スクールボーイ・サワムラの特集が組まれることがある。

 

一人一人がそれぞれの場所で踏ん張るんだ!がんばらない!怠けないこと!

そんな感じで。