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歴代最強のアマチュア日本代表
1988年、ソウルオリンピック――またしても野球は公開競技だ。
参加国は8ヶ国。
予選リーグA組にはアメリカ、韓国、オーストラリア、カナダ。
B組には日本、プエルトリコ、オランダ、台湾が名を連ねる。
なかでも話題をさらったのは、アメリカ代表の隻腕エース、ジム・アボットだ。 「アボット・スイッチ」と呼ばれる独特のグラブさばきに、94マイルのストレート。さらにカーブ、チェンジアップ、スライダーを自在に操る――左腕として、まさに本格派。
一方、日本代表も侮れない。
特に投手陣は、後の90年代前半のパ・リーグ、いや、ほとんど西武ライオンズそのものだ。エース格は渡辺智男。だが、直前の世界選手権でヒジを痛め、五輪では石井丈裕が先発の柱に据えられた。
さらに、若き日の野茂英雄や潮崎哲也も出場。特に野茂と古田敦也のバッテリーは、後の伝説的なコンビの原点として注目された。
もっとも、このチーム、調子がよかったわけではない。8月、イタリアで行われた世界選手権ではキューバ、アメリカ、台湾、プエルトリコに次々と敗れ、まさかの4位。雰囲気は最悪だった。だが、そんな危機的状況が、むしろチームを一つにまとめた――皮肉なものだが、そんなものだろう。
日本代表メンバー
監督
30 鈴木義信
コーチ
31 川島勝司
32 山中正竹
投手
11 潮崎哲也 →西武L
12 渡辺智男 →西武L
14 鈴木哲 →西武L
15 菊池総
16 吉田修司 →読売G
18 石井丈裕 →西武L
19 野茂英雄 →近鉄B
捕手
20 古田敦也 →ヤクルトS
22 應武篤良
内野手
1 西正文
2 葛城弘樹
3 米崎篤臣 →近鉄B
6 野村謙二郎 →広島C
9 小川博文 →オリックスB
10 筒井大助
28 大森剛 →読売G
外野手
8 中島輝士 →日本ハム
21 前田誠
25 松本安司
27 苫篠賢治 →ヤクルト
基本オーダー
1(三)葛城弘樹
2(遊)西 正文
3(右)筒井大助
4(一)中島輝士
5(指)大森 剛
6(左)松本安司
7(二)小川博文
8(捕)古田敦也
9(中)前田 誠
予選リーグ
B組第1戦
日本 vs.プエルトリコ
🇵🇷 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1
🇯🇵 3 0 3 0 0 0 1 0 0 7
(日)石井 ─ 古田
【本】大森
日本代表は初回限定、二死一塁のチャンスで4番中島が右中間へタイムリースリーベースを放つ。さらに5番大森剛のツーランホームランで点差を5点とした。
先発の石井はエラーで1点を失うが、被安打4の完投勝利である。
B組第2戦
日本 vs.台湾
🇹🇼 0 0 0 0 0 0 3 0 0 0 0 0 0 3
🇯🇵 0 0 0 0 0 1 0 2 0 0 0 0 1 4
(日)野茂、潮崎、石井 ─ 古田
先発の野茂英雄は6回途中まで無失点の好投。後続の潮崎、石井も追加点を許さないピッチング。
延長13回に、古田敦也のレフト前ヒットで代走笘篠が二塁から一気に本塁へ生還しサヨナラ勝ち。
B組第3戦
オランダ vs.日本
🇯🇵 2 0 0 2 0 0 0 2 0 6
🇳🇱 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1
(日)潮崎、菊池、鈴木、渡辺 ─ 古田、應武
先発の潮崎が5回を無失点に抑える好投。打線も序盤、中盤、終盤に効率よく得点し、危なげない試合展開となった。
決勝ラウンド
準決勝
日本 vs.韓国
🇰🇷 0 0 0 0 0 0 1 0 0 1
🇯🇵 0 0 0 0 0 0 1 2 X 3
(日)石井、潮崎、野茂 ─ 古田
【本】中島
準決勝は韓国戦。7回途中から登板の野茂が好投し終盤での逆転を呼びこんだ。
先制された直後の7回裏に、4番中島が韓国のエース朴から同点ホームランを放つ。さらに8回には古田の犠牲フライで勝ち越すのである。
決勝
日本 vs.アメリカ
🇺🇸 0 0 0 3 1 0 0 1 0 5
🇯🇵 0 1 0 0 2 0 0 0 0 3
(日)石井、渡辺、吉田、潮崎、野茂 ─ 古田
前大会につづき決勝の相手はアメリカ。石井とアボットの投げ合いである。
日本は2回に先制したが1点にとどまった。石井も好投していたが4回につかまってしまう。
マルチネスに特大2ランを打たれ渡辺にスイッチ。
だがさらに1点を追加されて5回にもマルチネスにタイムリーを打たれて3点差である。
日本は6回に一死満塁とするが2点で終わってしまい、8回にまたもマルチネスにホームランを打たれてしまう。追いつけそうで追いつけない日本に立ちはだかったのが先発アボットの闘志と気迫だった。アボットは五輪決勝で完投勝利である。
おそらく今の国際大会で、アメリカ投手の完投勝利というのは見ることはないだろう。とにかく決勝でのアメリカ代表は気迫に溢れていた。4年前の地元での屈辱を晴らすには金メダルしかなかったのだ。
このときのアメリカ代表には、ティノ・マルチネス、ロビン・ベンチュラなどがいた。
ゴールデンエイジの解放と覚醒
ソウル五輪の代表チームは、1985年のインターコンチネンタルカップ、1987年のアジア選手権、1988年の世界選手権、そして五輪直前に行われた四ヶ国対抗の壮行試合を経て、当時の日本プロ野球の「ドメスティック」な風土から大きく逸脱していった。
彼らは、当時のプロ野球界では得られなかった「世界基準」の視点を習得し、新しい地平をその肌で感じ、世界の野球と真剣に向き合う姿勢が、後の日本野球の発展を支える土台となったと言える。
その中心にいた世代── 彼らこそが、後の日本野球を未知のフェーズへと押し上げる触媒となったことは間違いないだろう。
ここに、後にメジャー挑戦のパイオニアと呼ばれる野茂英雄がいたことは偶然でもなんでもない。
そして、ソウル五輪は日本野球にとって大きな転換点であり、この世代が築いた経験と成果は、現在の侍ジャパンへと続く日本野球の礎となっていったのである。