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正式種目となった野球・歴史的接近
1992年、バルセロナ。野球がついにオリンピックの正式種目として採用された。今になって振り返れば、スペインで野球なんか誰が見るんだ、と思わないでもないが、当時はそんなことは微塵も考えなかった。
子供だったというのもあるが、「野球はマイナースポーツ」なんて認識そのものがそもそもなかったのだ。
それがどれほど偏狭で恐ろしい考えだったかは、大人になってから嫌というほど思い知らされる。
さらに日本の野球史において重要なのは、五輪代表の壮行試合として行われた「アマ・プロ交歓試合」だ。非常に画期的だった。
この試合の意義は大きい。プロとアマが接近したその瞬間に立ち会ったというだけで、当時を知る者は少なからず感慨を抱くだろう。
今でこそ侍ジャパンの下でプロもアマも同じユニフォームを着て、大学代表とプロ選抜が試合したり、シドニー五輪ではプロとアマの混成チームが編成されたりしたが、当時は「柳川事件」以来、プロとアマの間には深い溝があった。
交歓試合に出場したプロ選抜には、野茂、古田、新庄といった錚々たる面々が名を連ねた。結果は9対10で日本代表が敗れたが、プロが若手主体だったことを考えれば十分に善戦したと言える。
新たな予選リーグシステム
正式種目になったからだろうか、予選リーグの仕組みが変わった。
前回までは2つのグループに分かれていたのが、今回は総当たり戦になったのだ。その結果、試合数が増えた。
決勝まで進むと、ソウルでは5試合で済んだところが、バルセロナでは9試合を戦う必要があった。少なくとも制度上は、「正式」になった分だけハードルも上がった、というわけだ。
なお、東京五輪では再びグループ分け方式に戻っている。
日本代表唯一の大学生
日本代表は、社会人中心のチーム編成だった。いや、ほとんど社会人だったと言っていい。
唯一の例外が、大学生の小久保裕紀。後に侍ジャパントップチームの監督を務めることになる彼だが、このときは唯一の学生選手として選ばれていた。
ちなみに彼は後に、同じバルセロナ五輪で戦った小島啓民を侍ジャパンのコーチに呼んでいる。そういう縁だ。
ほかの主力選手で言えば、高速スライダーが武器の伊藤智仁、エース格の小桧山雅仁、「アンパンマン」の異名を持つ杉山賢人、そして「ミスターアマ野球」と称される杉浦正則などがいる。
監督は山中正竹で、今では全日本野球協会の会長だ。
キューバの参戦とその強さ
そして、ついにオリンピック姿を現したのがキューバだ。
ロス、ソウルと政治的事情で出場をボイコットしていた彼らが、バルセロナでオリンピックに登場したのである。
リナレスやキンデランといったスター選手を擁するキューバは、その時点で「世界最強」の呼び声が高かった。
当時の野球を知る者なら名前を聞くだけで震えたはずだ。その圧倒的な強さは日本代表や他国にとって脅威であると同時に、越えるべき高い壁だった。
彼らが五輪の舞台で何を見せるのか、全てが注目の的だった。
日本代表メンバー
監督
30 山中正竹
コーチ
32 荒井信久
35 野端啓夫
投手
12 佐藤康弘
14 杉山賢人 →西武L
15 渡部勝美
16 西山一宇 →読売G
17 小桧山雅仁 →横浜B
18 伊藤智仁 →ヤクルトS
19 杉浦正則
捕手
10 高見泰範
23 三輪隆
内野手
1 大島公一 →近鉄B
3 若林重喜
4 西正文
5 徳永耕治
6 十河章浩
7 小島啓民
8 小久保裕紀 →福岡ダイエーH
外野手
9 坂口裕之
25 佐藤真一 →福岡ダイエーH
26 中本浩
28 川畑伸一郎
基本オーダー
1(二)大島公一
2(遊)十河章浩
3(右)佐藤真一
4(一)徳永耕治
5(三)若林重喜
6(左)小久保裕紀
7(指)小島啓民
8(捕)高見泰範
9(中)坂口裕之
予選リーグ
第1戦
プエルトリコvs日本
🇯🇵 1 0 3 0 2 0 3 0 0 9
🇵🇷 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
(日)小桧山 ― 高見
日本が11安打、9得点で快勝。4番の徳永が3安打3打点と活躍した。
先発の小桧山はプエルトリコ打線を5安打完封。
第2戦
日本vsスペイン
🇪🇸 0 0 0 0 0 0 1 1
🇯🇵 2 4 0 2 0 4 X 12
7回コールド
(日)伊藤 ― 高見、三輪
【本】佐藤真、徳永、小久保
開催国のスペインをコールドで撃破。
2回には佐藤真、徳永の連続ホームラン。唯一の大学生小久保にもホームランが出た。
先発の伊藤智仁は7回を3安打1失点の好投。
第3戦
日本vsキューバ
🇨🇺 0 0 4 0 0 2 2 0 0 8
🇯🇵 0 0 0 1 0 1 0 0 0 2
(日)渡部、佐藤康 ― 高見
【本】佐藤真
打倒キューバを掲げていた日本にとっては前半戦のヤマ場である。先発は左腕の渡部勝美。制球のいい変化球で抑えていくという皮算用だったが、キューバは強かった。
リナレスに二本のホームランを浴びるなど、8対2の惨敗であった。小久保裕紀はそのすべてにおいて衝撃を受けたという。プロ入り前に、日本のプロ野球を凌駕する世界を体感してしまったのである。
第4戦
ドミニカ共和国vs日本
🇯🇵 1 1 4 1 5 4 1 17
🇩🇴 0 0 0 0 0 0 0 0
7回コールド
(日)杉山、西山、杉浦 ― 高見、三輪
【本】小島、佐藤真、小久保
毎回得点による7回コールド勝ち。
小島、佐藤真、小久保のホームランを含めた18安打と打線が爆発した。
投げては杉山、西山、杉浦の継投で無失点。
第5戦
日本vsイタリア
🇮🇹 0 0 0 0 1 2 0 0 3
🇯🇵 4 0 1 5 0 2 0 1 13
8回コールド
(日)伊藤 ― 高見、三輪
【本】若林、徳永
日本は初回から、若林のツーランホームランなどで4点を先制。11安打、13得点と打線が爆発。
先発の伊藤智仁は8回を3失点と役目を果たした。
第6戦
日本vs台湾
🇹🇼 0 0 0 0 0 0 1 0 1 2
🇯🇵 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
(日)小桧山、杉浦 ― 高見
日本代表は小桧山が8回途中まで2失点と好投したが、台湾のエース郭李に3安打と手が出ず、完封負けを喫した。
第7戦
アメリカvs日本
🇯🇵 0 1 0 0 0 4 1 0 1 7
🇺🇸 0 0 0 0 1 0 0 0 0 1
(日)渡部、斎藤康、杉浦 ― 高見
【本】徳永、若林
次のアメリカ戦、負けると予選リーグ4位確定である。そうなると準決勝の相手がキューバとなる。それは避けたいよね。
そんなアメリカ戦は快勝である。渡部、斎藤、杉浦とつなぎ、打線も徳永、若林にホームランが出て7対1である。
このときのアメリカ代表には、ジェイソン・ジアンビ、ノマー・ガルシアパーラ、ジェイソン・バリテックなどがいた。
これで予選リーグ5勝2敗で日本、アメリカ、台湾が並び、当該国同士の総失点で最終順位が決まった。日本が2位。台湾が3位。アメリカが4位となった。準決勝の対戦相手は台湾である。
決勝ラウンド
準決勝
日本vs台湾
🇹🇼 1 0 0 1 1 1 0 1 0 5
🇯🇵 0 1 1 0 0 0 0 0 0 2
(日)小桧山、杉浦 ― 高見
準決勝台湾戦、当然エース同士の対決で、再び小桧山と郭李の投げ合いである。
だが小桧山はいきなり初回に先頭打者ホームランを浴びてしまう。日本は2回に西のタイムリー、3回に佐藤真の犠牲フライで勝ち越すが、4回に追いつかれる。
ここで小桧山から杉浦に投手交代するが、5回6回にソロホームランを浴びて2点差に広がった。郭李は5安打完投。台湾に二度もやられて日本代表の金メダルへの戦いは終わった。
3位決定戦
アメリカvs日本
🇯🇵 0 4 0 0 0 4 0 0 0 8
🇺🇸 0 0 0 2 1 0 0 0 0 3
(日)伊藤、杉山、杉浦 ― 高見
「このメンバーでの野球は今日が最後だ」
3位決定戦当日の朝、準決勝敗退のショックから士気が下がった選手たちに山中監督がかけた言葉である。
この言葉でチームは再び一丸となることができた。先発は伊藤智仁。2回に小久保のタイムリーから4点を先制。4回に1点を返されたところで早めの継投。杉山、杉浦とつないでいく。
6回にまたも小久保のタイムリーから4点を追加して、8対3の快勝。金メダル、打倒キューバは果たせなかったが、アメリカに二度の勝利という結果を残して日本代表のバルセロナ五輪は幕を閉じた。
キューバの壁は大きくて堅い
キューバは予選リーグから決勝に至るまで全勝を遂げた。その圧倒的な戦績は、総得点95点という驚異的な数字に象徴される。2位の日本が記録した70点を大きく引き離し、まさに他の追随を許さない圧勝ぶりであった。
さらに、総失点22点という最少記録もまた、キューバの鉄壁ぶりを際立たせている。金メダル獲得はもはや必然ともいえる結果であった。
一方、伊藤智仁が記録した大会27奪三振はオリンピックレコードとなり、歴史に新たなページを刻んだのである。まさしく圧巻のパフォーマンスであり、その輝きは、数字以上の重みをもって語り継がれるだろう。